行持 下(33)

先師は十九歳より、離郷尋師(リキョウ ジンシ)、辨道功夫(ベンドウ クフウ)すること、六十五載(サイ)にいたりてなほ不退不転(フタイ フテン)なり。帝者(テイシャ)に親近(シンゴン)せず、帝者にみえず。丞相(ジョウショウ)と親厚ならず、官員と親厚ならず。

先師(天童如浄)は、十九歳から郷里を離れ、師を尋ねて仏道に精進し、六十五歳になっても、尚 修行を怠ることはありませんでした。師は、帝王に近付かず、帝王に見えず、大臣と親密にならず、役人とも親密になりませんでした。

紫衣師号(シエ シゴウ)を表辞するのみにあらず、一生まだらなる袈裟(ケサ)を搭(タッ)せず、よのつねに上堂(ジョウドウ)、入室(ニッシツ)、みなくろき袈裟、裰子(トッス)をもちゐる。

また、帝王の賜る紫衣や称号を辞退しただけでなく、一生まだら模様の袈裟を身に着けず、普段の法堂の説法や、室内の個人指導には、すべて黒い袈裟や衣を使用していました。

衲子(ノッス)を教訓するにいはく、「参禅学道は、第一 有道心(ウドウシン)、これ学道のはじめなり。この二百年来、祖師道はすたれたり、かなしむべし。いはんや一句を道得(ドウトク)せる皮袋(ヒタイ)すくなし。

師は修行僧に教訓して言いました。「禅に参じ道を学ぶには、先ず第一に道心のあること、これが仏道を学ぶ始めである。この二百年来、祖師の道は廃れてしまった。悲しいことである。まして仏法の一句さえ言える者も少ない有り様である。

某甲(ソレガシ)そのかみ径山(キンザン)に掛錫(カシャク)するに、光仏照(コウブッショウ)そのときの粥飯頭(シュクハントウ)なりき。上堂していはく、「仏法禅道、かならずしも他人の言句(ゴンク)をもとむべからず、ただ各自理会。」かくのごとくいひて、僧堂裏(ソウドウリ)すべて不管なりき。雲来(ウンライ)の兄弟(ヒンデイ)もまたすべて不管なり、祇管(シカン)に官客と相見追尋(ショウケン ツイジン)するのみなり。

私は以前、径山の道場で修行したが、その時 光仏照(徳光仏照)和尚が住持であった。和尚が上堂して言うには、「仏法 禅道は、必ずしも他人の言句を求めるものとは限らない。ただ各自で道理を会得しなさい。」と言って、僧堂内の事にはすべて係わらなかった。諸方から来た修行僧にもすべて係わらず、ひたすら官人と会うことに明け暮れているだけであった。

仏照ことに仏法の機関をしらず、ひとへに貪名愛利(トンミョウ アイリ)のみなり。仏法もし各自理会ならば、いかでか尋師訪道(ジンシ ホウドウ)の老古錐(ロウコスイ)あらん。真箇(シンコ)に是れ光仏照、曾て参禅せざるなり。

この仏照和尚は、まったく仏法の根本を知らず、ひたすら名利を貪り愛すだけであった。和尚の言うように、仏法がもし各自で道理を会得するものなら、どうして諸方に師を求め道を尋ねた古参の僧があったのであろうか。まことに光仏照和尚は、まったく師について禅を学んだことがないのである。

いま諸方長老無道心なる、ただ光仏照箇(コウブッショウコ)の児子(ジス)なり。仏法 那(ナン)ぞ他が手裏(シュリ)に有ることを得ん。惜しむべし、惜しむべし。」

今 諸方の長老で無道心なのは、もっぱら光仏照和尚の児孫である。仏法がどうして彼等の手にあるものだろうか。まことに残念なことだ。」

かくのごとくいふに、仏照児孫、おほくきくものあれどうらみず。

先師は、このように話され、そこに仏照和尚の児孫も多数聞いていたのですが、恨む者はありませんでした。

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