行持 上(12)

しかあれば、行持の至妙(シミョウ)は不離叢林(フリ ソウリン)なり。不離叢林は脱落(ダツラク)なる全語(ゼンゴ)なり。

このように、最も優れた行持は修行道場を離れないことです。修行道場を離れないことは、脱落(解脱)の全てを語っているのです。

至愚(シグ)のみづからは、不唖漢(フアカン)をしらず、不唖漢をしらせず。阿誰(アスイ)か遮障(シャショウ)せざれども、しらせざるなり。

この無言の、まことに愚かな人自身は、唖でない人を知らず、唖でない人を他に知らせません。誰かが妨げている訳ではありませんが、それを知らせないのです。

不唖漢なるを、得恁麽(トク インモ)なりときかず、得恁麽なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり。

この無言の唖でない人が、脱落を得ていると聞かず、脱落を得ていると知らないことは、哀れな自己です。

不離叢林の行持、しづかに行持すべし、東西の風に東西することなかれ。

ですから、修行道場を離れない行持を静かに続けなさい。東西の風に吹かれるままに東西に赴いてはいけません。

十年五載の春風秋月、しられざれども、声色透脱(ショウシキ トウダツ)の道あり。その道得(ドウトク)、われに不知(フチ)なり、われに不会(フエ)なり。

道場を離れない五年十年の春風秋月(歳月)には、自ら知ることがなくても、万境を脱落する道があるのです。そのことは、その人自身、知らないことであり、その人自身、分からないことなのです。

行持の寸陰(スンイン)を可惜許(カシャッコ)なりと参学すべし。不語を空然(クウネン)なるとあやしむことなかれ。

行持の寸時を大切にして学びなさい。無言の坐禅を空しいことと疑ってはいけません。

入之(ニュウシ)一叢林(イチソウリン)なり、出之(シュッシ)一叢林なり、鳥路(チョウロ)一叢林なり、徧界(ヘンカイ)一叢林なり。

修行道場を離れない行持とは、入るところも道場であり、出るところも道場であり、鳥の道も道場であり、全世界が一つの道場であるということです。

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