行持 上(2)

過去 現在 未来の諸仏の行持によりて、過去 現在 未来の諸仏は現成(ゲンジョウ)するなり。

過去 現在 未来の諸仏の行持によって、過去 現在 未来の諸仏は現れるのです。

その行持の功徳(クドク)、ときにかくれず。かるがゆゑに発心修行(ホッシン シュギョウ)す。その功徳、ときにあらはれず。かるがゆゑに見聞覚知(ケンモン カクチ)せず。

その行持の功徳は、時に隠れることなく現れます。そのために発心し修行するのです。又、その功徳は時に現れません。そのために気付くことがありません。

あらはれざれども、かくれずと参学すべし。隠顕存没(オンケン ゾンモツ)に染汙(ゼンナ)せられざるがゆゑに。

しかし、功徳は現れなくても、隠れることはないと学びなさい。仏道は有る無しという見方に汚されることはないからです。

われを見成(ゲンジョウ)する行持、いまの当穏(トウオン)に、これいかなる縁起(エンギ)の諸法ありて行持すると不会(フエ)なるは、行持の会取(エシュ)、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。

真の自己を実現する行持に於いて、今のように功徳が見えない時に、この行持がどのような縁起の法による行持なのか分からないのは、行持で会得するものが、決して新しい特別なものではないからです。(この訳不確実)

縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学(クフウ サンガク)を審細にすべし。

縁起の法は行持であり、行持は縁起しないものであると、詳細に学びなさい。(この訳不確実)

かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。

諸仏の行持を実現する行持とは、我々の今の行持なのです。

行持のいまは、自己の本有元住(ホンヌ ガンジュウ)にあらず。行持のいまは、自己に去来出入するにあらず。

行持の今は、自己に元からあるものではありません。また行持の今は、自己に去来出入するものでもありません。

いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するをいまといふ。

今という道は、行持より前にあるのではなく、行持が行われる時を今というのです。

しかあればすなはち、一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。

ですから、この一日の行持は諸仏の種子であり、諸仏の行持なのです。

この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、諸仏と同生同死(ドウショウ ドウシ)せず、同学同参せざるなり。

この行持によって諸仏が現れ、諸仏の行持が行われるのに、行持しないでいることは、諸仏を嫌がり、諸仏を供養しないことであり、また諸仏の行持を嫌がり、諸仏と生死を共にせず、大道を共に学ばないことなのです。

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