行持 上(24)

 大慈寰中禅師(ダイジ カンチュウ ゼンジ)いはく、「一丈(イチジョウ)を説得(セットク)せんよりは、一尺(イッシャク)を行取(ギョウシュ)せんに如(シ)かず。一尺を説得せんよりは、一寸(イッスン)を行取せんに如かず。」

 大慈寰中禅師が言うことには、「法を一丈説くよりも、一尺を行ずるほうがよい。一尺説くよりも、一寸を行ずるほうがよい。」と。

これは、時人(ジニン)の行持おろそかにして、仏道の通達(ツウダツ)をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是(フゼ)とにはあらず、一尺の行(ギョウ)は一丈説よりも大功(ダイコウ)なるといふなり。

これは、当時の人が修行を疎かにして、仏道に通暁することを忘れているのを戒めているようですが、一丈の説法が無駄という訳ではありません。一尺の行は一丈の説法よりも功が大きいと言っているのです。

なんぞただ丈尺(ジョウシャク)の度量(ドリョウ)のみならん、はるかに須弥(シュミ)と芥子(ケシ)との論功(ロンコウ)もあるべきなり。

しかしそれは、単に丈と尺ほどの違いだけでしょうか、遙かに須弥山と芥子粒ほどの功の違いがあると論じてもよいのです。

須弥に全量あり、芥子に全量あり。行持の大節(ダイセツ)、これかくのごとし。

しかし、須弥山には須弥山としての功の全量があるのであり、芥子粒には芥子粒としての功の全量があるのです。行持する上で守るべき大切な事柄とは、このようなことです。

いまの道得(ドウトク)は、寰中の自為道(ジイドウ)にあらず、寰中の自為道なり。

今の寰中禅師の言葉は、寰中の自らの言葉ではありません。寰中の自らの仏道なのです。(この訳不確実)

 洞山悟本大師(トウザン ゴホン ダイシ)(イハク)、「行不得底(ギョウ フトクテイ)を説取(セッシュ)し、説不得底(セツ フトクテイ)を行取(ギョウシュ)す。」

 洞山悟本大師が言うことには、「行ずることが出来ないことを説き、説くことが出来ないことを行ずる。」と。

これ高祖の道(ドウ)なり。その宗旨は、行は説に通ずるみちをあきらめ、説の行に通ずるみちあり。

これが高祖洞山の道です。その教えの主旨は、行は説かれたことに精通する道を明らかにし、説かれたことには行に精通する道があるということです。

しかあれば、終日とくところに終日おこなふなり。その宗旨は、行不得底を行取し、説不得底を説取するなり。

ですから、終日説いて終日行うのです。その教えの主旨は、行ずることの出来ないことを行じ、説くことの出来ないことを説くということです。

 雲居山弘覚大師(ウンゴザン コウガク ダイシ)、この道を七通八達(シッツウ ハッタツ)するにいはく、「説の時は行の路なく、行の時は説の路なし。」

 雲居山弘覚大師が、この洞山の道を自在に説いて言うには、「説く時には行えず、行う時には説けない。」と。

この道得は、行説(ギョウセツ)なきにあらず、その説時(セツジ)は、一生不離叢林(イッショウ フリ ソウリン)なり。その行時(ギョウジ)は、洗頭到雪峰前(セントウトウ セッポウゼン)なり。

この言葉は、行うことや説くことがないと言うのではありません。その説く時というのは、一生道場を離れないことです。その行う時というのは、昔ある僧が頭を洗い、雪峰禅師の前に来て、髪を剃ってもらったという、このことです。

説時無行路(セツジ ムギョウロ)行時無説路(ギョウジ ムセツロ)、さしおくべからず、みだらざるべし

この「説く時には行えず、行う時には説けない」という言葉を解明せずに放って置いたり、いいかげんにしてはいけません。

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