行持 上(23)

いま仏祖の大道を行持せんには、大隠小隠(ダイイン ショウイン)を論ずることなく、聡明鈍癡(ソウメイ ドンチ)をいふことなかれ。

今、仏祖の大道を行持するには、その場所が町の中であるか、深い山の中であるかは問題ではなく、その人が聡明であるか、愚鈍であるかは関係ありません。

ただながく名利(ミョウリ)をなげすてて、万縁に繋縛(ケバク)せらるることなかれ。光陰(コウイン))をすごさず、頭燃(ズネン)をはらふべし。

ただどこまでも名声や利益を投げ捨てて、あらゆる世間の縁に束縛されてはいけません。月日を無駄に過ごさず、頭に降りかかる火の粉を振り払う気持ちで修行しなさい。

大悟をまつことなかれ、大悟は家常(カジョウ)の茶飯(サハン)なり。不悟(フゴ)をねがふことなかれ、不悟は髻中(ケイチュウ)の宝珠(ホウジュ)なり。

修行に於いて大悟を待ち望んではいけません。大悟とは我々の日常の茶飯そのものであるからです。それならばと、悟らないことを願ってはなりません。悟らないことは、自らの髻(モトドリ)の中の宝石を知らないことだからです。

ただまさに、家郷(カキョウ)あらんは家郷をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらんは親族をはなるべし。

ですから、ただまさに故郷のある人は故郷を離れ、恩愛のある人は恩愛を離れ、名声のある人は名声を逃れ、利益のある人は利益を逃れ、田園のある人は田園を逃れ、親族のある人は親族を離れなさい。

名利等なからんも、又はなるべし。すでにあるをはなる、なきをもはなるべき道理、あきらかなり。それすなはち一条の行持なり。

名利などが無い人も、又これらのことから離れなさい。既にある人が離れるべきなのですから、無い人も離れなければならない道理は明らかです。それが一筋の行持というものです。

生前(ショウゼン)に名利をなげすてて、一事を行持せん、仏寿長遠(ブツジュ チョウオン)の行持なり。

生きている間に、名利を投げ捨てて、仏道の一事を行持することは、釈尊の寿命を永遠のものにする行持なのです。

いまこの行持、さだめて行持に行持せらるるなり。この行持あらん身心(シンジン)、みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし。

今のこの行持は、必ず行持することによって行持されていくものなのです。この行持をする自分の身心を、自ら大切にしなさい。この身心を自ら敬いなさい。

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