発菩提心(10)

(ほつぼだいしん)

魔に四種(シシュ)あり、一に煩悩魔(ボンノウマ)、二に五衆魔(ゴシュマ)、三に死魔(シマ)、四に天子魔(テンシマ)なり。

魔には四種類がある、一は煩悩魔、二は五衆魔、三は死魔、四は天子魔である。

煩悩魔とは、所謂(イハユル)百八煩悩等にして、分別すれば八万四千の諸煩悩なり。

煩悩魔とは、いわゆる百八の煩悩などによる魔であり、更に分ければ八万四千のあらゆる煩悩のことである。

五衆魔とは、是れ煩悩和合の因縁なり。
是の身は、四大
(シダイ)及び四大の造色(ゾウシキ)、眼根(ゲンコン) 等の色を得たり。是を色衆(シキシュ)と名づく。
百八煩悩等の諸受和合す、名づけて受衆
(ジュシュ)と為す。
大小無量の所有
(ショウ)の想、分別和合す、名づけて想衆(ソウシュ)と為す。
好醜
(コウシュウ)の心 発(オコ)るに因って、能(ヨ)く貪欲瞋恚(トンヨク シンイ)等の心を起こす。相応不相応(ソウオウ フソウオウ)の法を名づけて行衆(ギョウシュ)と為す。
六情六塵和合するが故に六識
(ロクシキ)を生ず、是の六識和合して無量無辺の心あり、是を識衆(シキシュ)と名づく。

五衆魔とは、色(肉体)受(感受)想(心象)行(意思)識(認識)という人の五つの要素によって起こる魔である。これらが煩悩の原因となるのである。
この身体は、四大(万物の四元素である地水火風)や四大によって作り出された色(肉体)、そして五根(眼耳鼻舌身)の色(肉体)により成り立っている。これを色衆(色の集まり)と呼ぶ。
人は百八の煩悩など様々な感受をする。これを受衆(感受の集まり)と呼ぶ。
人は大小様々な思いを抱き、様々な思量分別をする。これを想衆(考え思うことの集まり)と呼ぶ。
人は好悪の心によって貪欲や怒りなどの心を起こす。このような心を起こしたり起こさなかったりする様子を行衆(意思の集まり)と呼ぶ。
人は六情(眼耳鼻舌身意の六根)六塵(六根によって感受される色声香味触法の六境)によって六識(六境を認識する働き)を生じる。そしてこの六識によって無量の心を起こす。これを識衆(認識の集まり)と呼ぶ。

死魔とは無常の因縁の故に、五衆(ゴシュ)を相続する寿命を破り、三法の識熱寿(シキ ネツ ジュ)を尽離(ジンリ)するが故に、名づけて死魔と為す。

死魔とは、無常(死)の原因となる魔である。五衆(色受想行識)を保つ寿命を破り、仏の三法(教え、修行、悟り)の心と身体と寿命を奪うので死魔と呼ぶ。

天子魔とは、欲界の主なり。深く世楽(セラク)に著(ジャク)し、有所得(ウショトク)を用いるが故に邪見を生じ、一切賢聖の涅槃(ネハン)の道法を憎嫉(ゾウシツ)す、是を天子魔と名づく。

天子魔とは、他化自在天の魔王であり欲界(欲望の世界)の主である。深く世俗の欲楽に執着し、利益を求める故に邪まな考えを起こし、全ての賢人聖人の悟りの道法を憎み妬むのである。これを天子魔と呼ぶ。

魔は是れ天竺(テンジク)の語、秦(シン)には能く命を奪ふ者と言ふ。死魔は実に能く命を奪ふと雖も、餘(ヨ)の者もまた能く奪命(ダツミョウ)の因縁を作(ナ)し、また智慧の命を奪ふ、是の故に殺者(セッシャ)と名づく。

魔は「マーラ」というインドの言葉で、中国では「命を奪う者」と言う。死魔は実際に命を奪うけれども、他の魔も命を奪う因縁となり、また智慧の命を奪うものである。この故に殺者と呼んでいる。

問うて曰く、「一の五衆魔に三種の魔を摂(セッ)す、何を以ての故に、別して四と説くや。」
答えて曰く、「実に是れ一魔なり、其の義を分別するが故に四有り。」

尋ねて言う、「五衆魔一つの中に三種の魔を含んでいるが、何故 魔を四種類に分けて説くのか。」
答えて言う、「これらの魔は、実際には一つの魔であるが、その内容を分けて説けば四種類になるのである。」

上来これ龍樹祖師(リュウジュ ソシ)の施設なり、行者(ギョウジャ)しりて勤学(ゴンガク)すべし。いたづらに魔嬈(マニョウ)をかうぶりて菩提心を退転せざれ、これ守護菩提心なり。

これまで述べてきたことは龍樹祖師の教えです。修行者はよく学んで修行に勤めなさい。徒に魔に惑わされて菩提心を退いてはいけません。これが菩提心を守ることです。

正法眼蔵 発菩提心 第四
爾時
(コノトキ)寛元二年甲辰(キノエ タツ)二月十四日、越州吉田県 吉峰精舎(キッポウ ショウジャ)に在って衆(シュ)に示す。
建長七年乙卯
(キノト ウ)四月九日、御草案を以て之(コレ)を書写す。懐弉(エジョウ)

発菩提心おわり。

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