発菩提心(8)

(ほつぼだいしん)

仏の言(ノタマ)はく、
「云何
(イカン)が菩薩は一事を守護せん。謂(イハ)く、菩提心なり。菩薩摩訶薩(ボサツマカサツ)は、常に勤めて是の菩提心を守護すること、猶(ナオ)世人の一子を守護するが如し。亦(マタ)瞎者(カッシャ)の餘の一目(イチモク)を護るが如し。曠野(コウヤ)を行くに、導者を守護するが如し。菩薩の菩提心を守護することも、亦復(マタ)(カク)の如し。

仏(釈尊)の言われることには、
「菩薩(悟りを求め衆生を利益する者)の守るべき一事とは何であるか。それは菩提心である。菩薩が常に努めて菩提心を守る様子は、世の人が我が子を守る事に似、また片目を失った者がもう一つの目を守る事に似、広い原野を行く者が案内人を守る事に似ている。菩薩が菩提心を守ることも、これと同様である。

是の如く菩提心を護るに因(ヨ)るが故に、阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)を得(ウ)。阿耨多羅三藐三菩提を得るに因るが故に、常楽我浄(ジョウ ラク ガ ジョウ)具足して有り。即ち是れ無上大般涅槃(ムジョウダイハツネハン)なり。是の故に、菩薩は一法を守護すべし。」

このように菩提心を守る事によって阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を得るのであり、阿耨多羅三藐三菩提を得ることによって常楽我浄(悟りの四つの功徳)が具わるのである。これが最上の涅槃(煩悩を滅した無上の悟り)である。このために菩薩は菩提心の一法を守りなさい。」と。

菩提心をまぼらんこと、仏語あきらかにかくのごとし。守護して退転なからしむるゆへは、世間の常法にいはく、
「たとひ生ずれども熟せざるもの三種あり。いはく魚子
(ギョシ)、菴羅果(アンラカ)、発心菩薩なり。」

このように、菩提心を守るべき事は仏の言葉に明らかです。菩提心を守って退かない理由は、世間で広く言われているように、「たとえ生まれても熟さないものが三種ある。それは魚の卵、マンゴーの果実、発心の菩薩である。」という通りです。

おほよそ退失のものおほきがゆへに、われも退失とならんことを、かねてよりおそるるなり。このゆへに菩提心を守護するなり。

およそ菩提心は退いて失う者が多いので、私も失うことを以前から恐れているのです。そのために菩提心を守っているのです。

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