宏智古仏(ワンシ コブツ)、かみの因縁を頌古(ジュコ)するに云(イワ)く、「一尺の水、一丈の波、五百生前(ゴヒャクショウゼン)を奈何(イカン)ともせず。不落不昧(フラク フマイ)を商量するや、依然(イゼン)として葛藤窠(カットウカ)に撞入(トウニュウ)す。阿呵呵(アカカ)、会(エ)す也。
宏智(正覚)古仏(尊称)が、最初の百丈禅師の因縁話を称揚して言うには、
「一尺の水が一丈の波となるように、五百生以前の因果によって野狐となったことは如何んともしがたい。それを因果に落ちないのか、因果を昧まさないのかと論議しても、依然として文字や言葉に捕らわれるばかりである。あっはっは、笑止なことだ。これが分かったか。
若し是れ儞(ナンジ)洒洒落落(シャシャ ラクラク)たらば、我が哆哆和和(タタ ワワ)を妨げず、神歌社舞(シンカ シャブ) 自(オノ)ずから曲を成(ナ)し、手を其の間に拍して哩囉(リラ)を唱う。」
もしお前たちが、全てのこだわりをきれいさっぱりと落してしまえば、私の赤子の泣き声を邪魔にせず、豊作を祝う祭りが自然に歌い舞われて、共に手をうち囃して歌うことであろう。」と。
いま不落不昧商量也(フラク フマイ ショウリョウヤ)、依然撞入葛藤窠(イゼン トウニュウ カットウカ)の句、すなわち不落と不昧とおなじかるべしといふなり。おほよそこの因果、その理いまだつくさず。
この中の「因果に落ちないのか、因果を昧まさないのかと論議しても、依然として文字や言葉に捕らわれるばかりである。」という言葉は、因果に落ちないと言っても昧まさないと言っても、同じようなものであると言うのです。ただこの因果の話は、まだその道理を尽くしているとは言えません。
そのゆゑいかんとなれば、脱野狐身(ダツ ヤコシン)は、いま現前せりといへども、野狐身をまぬかれてのち、すなはち人間に生ずといはず、天上に生ずといはず、および余趣(ヨシュ)に生ずといはず。人のうたがふところなり。
何故ならば、野狐の身を脱け出ることは、今出来たけれども、野狐の身を脱け出て後に、人間に生まれたとも言わないし、天上に生まれたとも言わないし、さらに他の所に生まれたとも言わないのは、人の疑問とするところです。
脱野狐身のすなはち善趣(ゼンシュ)にうまるべくは、天上人間にうまるべし。悪趣(アクシュ)にうまるべくは、四悪趣等にうまるべきなり。脱野狐身ののち、むなしく生処(ショウショ)なかるべからず。
野狐の身を脱け出て、よい世界に生まれるべき者は、天上や人間に生まれることでしょう。悪い世界に生まれるべき者は、地獄、餓鬼、畜生、修羅などに生まれるのです。野狐の身を脱け出て後に、どこにも生まれる所が無いということはありません。
もし衆生(シュジョウ)死して性海(ショウカイ)に帰し、大我に帰すといふは、ともにこれ外道(ゲドウ)の見(ケン)なり。
もし衆生は死んで本性の海に帰り、大我に帰ると言うのなら、それは外道の考えです。