深信因果(9)

夾山(カッサン)の圜悟(エンゴ)禅師 克勤(コクゴン)和尚、頌古(ジュコ)に云く。「魚行けば水濁り、鳥飛べば毛落つ、至鑑(シカン) 逃れ難く、太虚 寥廓(リョウカク)たり。一たび往(ユキ)て迢迢(チョウチョウ)たり五百生、只 因果の大修行に縁る。疾雷(シツライ) 山を破り、風 海を震はす、百錬の精金 色改まらず。」

夾山の圜悟禅師 克勤和尚が、百丈和尚を称揚した言葉に、
「魚行けば水が濁り、鳥飛べば毛が落ちる。因果の法は、すぐれた鏡がすべてを映すように逃れ難く、大空が広々と開けているように明らかである。一たび野狐に堕ちて久しく五百生を重ねたことは、ただ因果の大修行であった。激しい雷が山を壊し、風は海を震わしたが、よく精錬した金の色は変わることがなかった。」とあります。

この頌(ジュ)なほ撥無(ハツム)因果のおもむきあり、さらに常見(ジョウケン)のおもむきあり。

この言葉には、依然として因果を無視する趣きがあり、更に常見(恒常で変わらぬものという見解)の趣もあります。

杭州径山(コウシュウ キンザン)の大慧(ダイエ)禅師 宗杲(ソウコウ)和尚、頌に云く。「不落不昧(フラク フマイ)、石頭土塊(セキトウ ドカイ)、陌路(ハクロ)に相逢ふて、銀山粉砕す。拍手呵呵(ハクシュ カカ)笑ひ一場、明州(ミンシュウ)に箇の憨布袋(カンホテイ)有り。」

また杭州径山の大慧禅師 宗杲和尚が称揚した言葉には、
「因果に落ちないと答えても、因果を昧まさないと答えても、それは石ころと土くれほどの違いでしかない。ただ路上で百丈和尚に出会ったことで、五百生の野狐身を粉砕したのだ。この話を聞いて、手をたたいて大笑したのは、明州の愚鈍な布袋和尚である。」とあります。

これらをいまの宋朝のともがら、作家(サッケ)の祖師とおもへり。しかあれども、宗杲が見解(ケンゲ)、いまだ仏法の施権(セゴン)のむねにおよばず、ややもすれば自然見解(ジネンケンゲ)のおもむきあり。

これらの人を、今の宋国の仲間は優れた祖師と思っています。しかしながら宗杲の見解は、未だ仏法の方便の教えにも及びません。ややもすれば自然見解(全てを無因と見ること)の趣さえ窺われます。

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