袈裟功徳(10)

しかあればすなはち、袈裟(ケサ)を受持せんは、宿善(シュクゼン)よろこぶべし、積功累徳(シャック ルイトウ)うたがふべからず。

ですから、袈裟を受けた者は、自らの過去世の善根を喜ぶことです。その功徳の積み重ねによって得たことを疑ってはいけません。

いまだえざらんはねがふべし、今生(コンジョウ)いそぎ、そのはじめて下種(ゲシュ)せんことをいとなむべし。

まだ袈裟を得ていない者は、善根を願い求めなさい。今生の中に、急いで善根の種を蒔くことに励むのです。

さはりありて受持することえざらんものは、諸仏如来、仏法僧の三宝に、慚愧(ザンキ)懺悔(サンゲ)すべし。

自己に障りがあって、袈裟を受けることが出来ない者は、諸仏や仏法僧の三宝に、自ら慚愧し懺悔をしなさい。

他国の衆生(シュジョウ)いくばくかねがふらん、わがくにも震旦国(シンタンコク)のごとく、如来の衣法(エホウ)まさしく正伝(ショウデン)親臨(シンリン)せましと。

他国の人々も、この袈裟を、どれほど深く願い求めていることでしょうか。「我が国にも、中国のように、如来の衣と法が正しく伝わって、親しく見ることが出来ますように。」と。

おのれがくにに正伝せざること、慚愧ふかかるらん、かなしむうらみあるらん。われらなにのさいはひありてか、如来(ニョライ)世尊(セソン)の衣法 正伝せる法にあふたてまつれる。宿殖(シュクジキ)般若(ハンニャ)の大功徳力なり。

この衣と法が、自分の国に正しく伝わらないことは、慚愧の心深く、悲しいことでしょう。我々は何の幸いがあって、如来の正しい伝統の衣と法に会うことが出来たのでしょうか。それは、我々が過去世に植えた善根と智慧の、大きな功徳の力によるものなのです。

いま末法 悪時世(マッポウ アクジセ)は、おのれが正伝なきをはぢず、他の正伝あるをそねむ。おもはくは、魔党(マトウ)ならん。

今の末法の悪世では、自分に正しい伝統の衣と法が無いことを恥じないで、他の人には正しい伝統の衣と法があることを妬むのです。思うに、その者は仏道を妨げる魔物の類でしょう。

おのれがいまの所有(ショウ)所住(ショジュウ)は、前業(ゼンゴウ)にひかれて真実にあらず。ただ正伝の仏法に帰敬(キキョウ)せん、すなはちおのれが学仏の実帰(ジッキ)なるべし。

自分が今所有しているものや、住している所は、自らの前世の行いの影響を受けて、真実のものではありません。ですから、ひたすら正しく伝えられた仏法を敬い帰依することが、自ら仏道を学ぶための真実の帰処なのです。

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