おほよそしるべし、袈裟はこれ諸仏の恭敬帰依(クギョウ キエ)しましますところなり。仏身なり、仏心なり。
まず知ることです。袈裟は、諸仏が敬い帰依されているものであり、仏の身体であり、仏の心なのです。
解脱服(ゲダップク)と称し、福田衣(フクデンエ)と称し、無相衣(ムソウエ)と称し、無上衣(ムジョウエ)と称し、忍辱衣(ニンニクエ)と称し、如来衣(ニョライエ)と称し、大慈大悲衣(ダイズ ダイヒエ)と称し、勝幡衣(ショウバンエ)と称し、阿耨多羅三藐三菩提衣(アノクタラ サンミャクサン ボダイエ)と称す。
また、煩悩を解脱する服とも言い、福をもたらす衣とも言い、執着を離れた無相の衣とも言い、この上なく優れた功徳を生む衣とも言い、忍耐して恨みの心を起こさない衣とも言い、如来の衣とも言い、大慈大悲の衣とも言い、魔を下す衣とも言い、この上ない仏の悟りの衣とも言うのです。
まさにかくのごとく受持頂戴(ジュジ チョウダイ)すべし。かくのごとくなるがゆゑに、こころにしたがうてあらたむべきにあらず。
まさにこのように心得て袈裟を受け、頂戴することです。袈裟とは、こういうものですから、人の意向に従って改めてはならないのです。
その衣財(エザイ)、また絹布(ケンプ)よろしきにしたがうてもちゐる。かならずしも布(フ)は清浄(ショウジョウ)なり、絹(ケン)は不浄なるにあらず。布をきらうて絹をとる所見(ショケン)なし、わらふべし。
袈裟の材料は、絹であれ麻や綿であれ適したものを使います。必ずしも麻や綿が清浄で、絹が不浄というわけではありません。また麻や綿を嫌って絹を取るという考えもありません。このような考えは笑うべきものです。
諸仏の常法(ジョウホウ)、かならず糞掃衣(フンゾウエ)を上品(ジョウボン)とす。糞掃に十種あり、四種あり。
諸仏のしきたりでは、必ず糞掃衣(ぼろ布で作った袈裟)を上等とします。糞掃(ぼろ布)には十種類または四種類あります。
いはゆる、火焼(カショウ)、牛嚼(ゴシャク)、鼠噛(ソコウ)、死人衣(シニンエ)等、五印度(ゴインド)の人、此(カク)の如き等の衣、之(コレ)を巷野(コウヤ)に棄(ス)つ。
いわゆる、焼け焦げた服、牛の噛んだ服、鼠のかじった服、死人の服などです。インド地方の人々は、これらの服を路地や郊外に捨てたのです。
事 糞掃に同じく、糞掃衣と名づく。行者(ギョウジャ)之を取って、浣洗縫治(カンセン ホウジ)して、用いて以て身に供(クウ)ず。
それは糞掃(ぼろ布)と同じなので、糞掃衣と呼ぶのです。修行者はこれを拾って洗い、縫い直して身に着けるのです。
そのなかに絹類あり、布類あり、絹布の見をなげすてて、糞掃を参学すべきなり。
糞掃衣(ぼろ布で作った袈裟)の中には絹の類があり、麻や綿の類がありますが、絹や麻 綿という見方を投げ捨てて、糞掃というものを学びなさい。
糞掃衣は、むかし阿耨達池(アノクダッチ)にして浣洗せしに、龍王(リュウオウ)讃歎(サンタン)、雨華(ウゲ)礼拝(ライハイ)しき。
糞掃衣は、昔 出家がそれを阿耨達池(ヒマラヤ山脈の北にあるという池)で洗っていると、そこに棲む龍王が賛嘆して花を降りそそぎ、礼拝したといわれます。