帰依三宝(11)

(きえ さんぼう)

法句経(ホックキョウ)に云(イハ)く、
「昔、天帝
(テンタイ)有り、自(ミズカ)ら命終(ミョウジュウ)して驢中(ロチュウ)に生ぜんことを知り、愁憂(シュウウ)すること已(ヤ)まずして曰(イハ)く、「苦厄(クヤク)を救はん者は、唯(タダ)仏世尊(ブツ セソン)のみなり。」

法句経には次のように説かれている。
「昔ある帝釈天(タイシャクテン)が、自分の命が終ると来世は驢馬(ロバ)に生まれることを知って、憂い悲しんで言った。
「私のこの苦難を救ってくれるものは仏(釈尊)しかいない。」と。

便(スナハ)ち仏の所に至り、稽首伏地(ケイシュ フクチ)して、仏に帰依したてまつる。未だ起きざる間に、其(ソ)の命 便(スナハ)ち終って驢胎(ロタイ)に生ず。

そこですぐに仏の所に行き、地に伏して礼拝し、仏に帰依した。帝釈天は、礼拝からまだ起き上がらない間に命が終り、驢馬の胎内に生まれた。

母の驢、鞚(クツワ)断たれて陶家(トウカ)の坏器(ハイキ)を破る。器主 之(コレ)を打つ。遂に其の胎を傷つけ、天帝の身中に還(カヘ)り入る。

すると、母の驢馬の手綱が切れて瀬戸物屋の陶器を壊し、店屋の主が怒って驢馬を打った。それで驢馬の胎が傷ついて、また帝釈天の身に帰ることが出来た。

仏 言(ノタマ)はく、
「殞命
(インミョウ)の際、三宝に帰依す、罪対 已(スデ)に畢(オワ)りぬ。」
天帝 之
(コレ)を聞き、初果(ショカ)を得たり。

そこで仏が言われるには、
「命を落とす際に三宝(仏陀、仏法、僧団)に帰依したので、罪に対することが終ったのである。」と。
帝釈天はこの言葉を聞いて、聖者の最初の悟りを得た。」

  おほよそ世間の苦厄をすくふこと、仏世尊にはしかず。このゆゑに、天帝いそぎ世尊のみもとに詣(ケイ)す。伏地のあひだに命終し、驢胎(ロタイ)に生ず。

  およそ世間の苦難を救うことに於て、仏に及ぶ者はいません。それでこの帝釈天は、急いで仏の所に参ったのです。そして地に伏して礼拝する間に命が終わり、驢馬の胎内に生まれました。

帰仏の功徳により、驢母(ロモ)の鞚(クツワ)やぶれて、陶家の坏器を踏破(トウハ)す。器主これをうつ。驢母の身いたみて、託胎(タクタイ)の驢やぶれぬ。すなはち天帝の身にかへりいる。仏説をききて初果をうる、帰依三宝の功徳力(クドクリキ)なり。

そして仏に帰依した功徳によって、驢馬の母の手綱が切れて瀬戸物屋の陶器を壊し、店主が驢馬を打って驢馬の母の身は傷み、胎の驢馬が傷ついて帝釈天の身に帰ることが出来ました。そして仏の教えを聞いて最初の聖者の悟りを得たのは、三宝に帰依した功徳力のおかげでした。

しかあればすなはち、世間の苦厄すみやかにはなれて、無上菩提を証得せしむること、かならず帰依三宝のちからなるべし。

このように、世間の苦難を速やかに離れて、無上の悟りを得させるものは、三宝に帰依する功徳力なのです。

おほよそ三帰のちから、三悪道をはなるるのみにあらず、天帝釈(テンタイシャク)の身に還入(ゲンニュウ)す。天上の果報をうるのみにあらず、須陀洹(シュダオン)の聖者(ショウジャ)となる。まことに三宝の功徳海(クドクカイ))、無量無辺にましますなり。

およそ三宝帰依の功徳力によって、地獄 餓鬼 畜生などの三悪道を離れるだけでなく、帝釈天の身に帰ったのです。天上界に生まれる果報を得るだけでなく、須陀洹(最初の悟りを得た者)の聖者となったのです。まことに三宝の功徳の海は広大で計り知れません。

世尊在世(セソン ザイセ)は、人天(ニンデン)この慶幸(ケイコウ)あり。いま如来滅後、後五百歳のとき、人天いかがせん。しかあれども、如来形像(ニョライ ギョウゾウ)舎利(シャリ)等、なほ世間に現住(ゲンジュウ)しまします。これに帰依したてまつるに、またかみのごとくの功徳をうるなり。

仏(釈尊)が世に居られた時には、人間界や天上界の人々に、このような幸せがありました。しかし今は仏の滅後、五百年の時であり、人間界や天上界の人々は一体どうすればよいのでしょうか。しかしながら、仏像や舎利(仏の遺骨)などが今も世間にあり、これに帰依すれば、またこのような功徳が得られるのです。

帰依三宝(12)へ進む

帰依三宝(10)へ戻る

ホームへ