供養諸仏(11)

(くようしょぶつ)

我 復た語(ツ)げて言(イハ)く、「汝 我に銭を与へ、我に七日を仮(カ)すべし。我が事 訖(ヲハ)るを須(マ)ちて、便(スナワ)ち還(マ)た相ひ就(ツ)かん。」

そこで、私は又言うに、「私にそのお金を下さい。そして私に七日の猶予を下さい。自分の用事を済ませてから、すぐにまた戻って来ます。」

其の人 見答(ケントウ)すらく、「七日は不可なり、審(マコト)に能(ヨ)く爾(シカ)あれば、当に一日を許(ユル)すべし。」

その人は答えて、「七日はだめだ、それが本当なら一日だけ許そう。」

善男子、我 爾(ソ)の時に於て、即ち其の銭を取りて、還た仏の所(ミモト)に至り、頭面(ヅメン)に礼足(ライソク)し、其の所有を尽して、而以(モッ)て奉献(ブコン)しき。

善男子よ、私はその時にその金銭を受け取り、仏の所に行って仏のみ足を礼拝し、持てるもの全てを仏に差し上げたのである。

然る後に、誠心(ジョウシン)に是の経を聴受せり。我 時に闇鈍(アンドン)にして、経を聞くことを得(ウ)と雖も、唯(タ)だ能く一偈(イチゲ)の文句を受持せり。

その後に、誠の心でこの大涅槃経を聞いたのである。しかし、私はその時に愚鈍で、経を聞いても一つの語句を覚えることが出来ただけであった。

如来 涅槃(ネハン)を証したまひ、永く生死(ショウジ)を断ず。若し至心(シイシン)に聴くこと有らば、常に無量の楽を得べし。

それは、「如来は涅槃(煩悩の火を吹き消すこと)を悟られて、永く苦界の生死流転を断っている。もし誠の心でその教えを聞けば、常に無量の楽を得るであろう。」という語句であった。

是の偈を受け已(オワ)りて、即便(スナワ)ち還た彼(カ)の病人の家に至る。

私はこの語句を覚えると、すぐにその病人の家に行った。

善男子、我 時に復た日日に三両の肉を与ふと雖も、念偈(ネンゲ)の因縁を以ての故に、以て痛しと為さず。日日廃せず、一月(ヒトツキ)を具満(グマン)す。

善男子よ、私はその時、日々に三両の身体の肉を病人に与えたが、この語句を念じていた因縁によって、傷は痛まず、日々止めずにひと月を経過したのである。

善男子、是の因縁を以て、其の病 瘥(イ)ゆることを得、我が身も平復(ヘイフク)して、亦 瘡痍(ソウイ)無し。我 時に身の具足完具するを見て、即ち阿耨多羅三藐三菩提心(アノクタラサンミャクサンボダイシン)を発(オコ)せり。

善男子よ、この因縁によってその者の病は癒え、私の身体も治って傷跡も無くなったのである。私はその時に、自分の身体が完全に戻ったのを見て、阿耨多羅三藐三菩提心(無上の悟りを求める心)を起こしたのである。

一偈の力、尚 能く是(カク)の如し。何(イカ)に況や具足して受持し読誦(ドクジュ)せんをや。

この経の一語の功徳力でさえ、このとおりである。まして、大涅槃経の全てを受け取り唱える功徳は広大なのである。

我 此の経に是の如くの利有るを見て、復た倍(マスマス)発心(ホッシン)し、未来に於て仏道を成ずることを得て、釈迦牟尼仏と字(アザナ)せんことを願へり。

私は、この大涅槃経にこのような利益のあることを見て、益々発心し、未来には仏道を成就して、釈迦牟尼仏と呼ばれることを願ったのである。

善男子、是の一偈の因縁力(インネンリキ)を以ての故に、我をして今日 大衆(ダイシュ)の中に於て、諸の天人の為に、具足して宣説(センゼツ)せしむ。

善男子よ、この経の一語の因縁、功徳力のお陰で、私は今日人々の中で、人間や天界の人々のために、この経を欠ける所なく説くことが出来るのである。

善男子、是の因縁を以て、是の大涅槃(ダイネハン)は、不可思議にして、無量無辺の功徳を成就す。乃ち是れ諸仏如来、甚深秘密之蔵(ジンジンヒミツノゾウ)なり。」

善男子よ、この因縁で分かるように、この大涅槃経は、不可思議で無量の功徳を成就しているのである。この経は諸仏如来の奥深い秘密の蔵なのである。」

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