供養諸仏(12)

(くようしょぶつ)

そのときの売身(マイシン)の菩薩は、今釈迦牟尼仏(コン シャカムニブツ)の往因(オウイン)なり。他経を会通(エヅウ)すれば、初阿僧祇劫(ショ アソウギコウ)の最初、古釈迦牟尼仏(コ シャカムニブツ)を供養したてまつりましますときなり。

このように、その時に自分の身を売った菩薩とは、今の釈迦牟尼仏の前世の因縁でした。これは他の経文によると、初めの阿僧祇劫の最初の頃、昔の釈迦牟尼仏を供養した時のことでした。

かのときは瓦師(ガシ)なり、その名を大光明(ダイコウミョウ)と称す。古釈迦牟尼仏ならびに諸弟子に供養するに、三種の供養をもてす。いはゆる草座(ソウザ)、石蜜漿(シャクミツショウ)、燃燈(ネントウ)なり。

釈尊はその時 瓦職人であり、名前を大光明と言いました。彼は、昔の釈迦牟尼仏とその弟子たちを供養するのに三種の品を施しました。いわゆる草座(草の敷物)、石蜜漿(氷砂糖を溶かした水)、燃燈(燈明)です。

そのときの発願(ホツガン)にいはく、「国土、名号(ミョウゴウ)、寿命、弟子、一如(イチニョ)今釈迦牟尼仏。」 かのときの発願、すでに今日 成就(ジョウジュ)するものなり。

そしてその時に、「私は、国土、名号、寿命、弟子など、皆 今の釈迦牟尼仏と等しい者になる。」と発願しました。その時の発願は、すでに今日成就しているのです。

しかあればすなはち、ほとけを供養したてまつらんとするに、その身まづしといふことなかれ、そのいへまづしといふことなかれ。

ですから、仏を供養しようとする時には、自分の身が貧しいと言ってはいけません。自分の家が貧しいとも言ってはいけません。

みづから身をうりて、諸仏を供養したてまつるは、いま大師釈尊の正法(ショウボウ)なり、たれかこれを随喜歓喜(ズイキ カンギ)したてまつらざらん。

自分から進んで身を売って諸仏を供養することは、今の大師釈尊の正しい法なのです。仏の供養を志す者であれば、誰がこれを喜ばないものでしょうか。

このなかに、日日に三両の身肉(シンニク)を割取(カッシュ)するぬしにあふ。善知識なりといへども、他人のたふべからざるなり。

そして、自分の身を売ろうとする中で、日々に三両の身体の肉を求める人に出会いました。それが良き導師であっても、他の人には耐えられないことです。

しかあれども、供養の深志(ジンシ)のたすくるところ、いまの功徳(クドク)あり。いまわれら如来の正法を聴聞(チョウモン)する、かの往古(オウコ)の身肉を処分せられたるなるべし。

しかし、諸仏供養の深い志しに助けられて、その発願を成就する功徳がありました。今、我々が如来の正法を聞くことが出来るのは、釈尊がその昔、自身の肉を病人に分け与えたからなのです。

いまの四句の偈(ゲ)は、五枚の金銭にかふるところにあらず。三阿僧祇劫一百大劫のあひだ、受生捨生(ジュショウ シャショウ)にわするることなく、彼仏是仏(ヒブツ ゼブツ)のところに証明せられきたりましますところ、まことに不可思議の功徳あるべし。

先ほどの四句の教えは、五枚の金銭に換えられるようなものではありません。何故なら、これは釈尊が三阿僧祇劫 一百大劫に亘る修行の間、生を受け 生を捨てても忘れることなく、あらゆる仏の所で証明してきた教えであって、まことに不可思議な功徳があるからです。

遺法(ユイホウ)の弟子、ふかく頂戴受持(チョウダイ ジュジ)すべし。如来すでに一偈(イチゲ)の力、なほよくかくのごとしと宣説(センゼツ)しまします、もともおほきにふかかるべし。

ですから、釈尊の遺された教えを学ぶ弟子は、その教えを深く頂戴し護持しなさい。如来は一つの教えの力でさえ、このように功徳があると説いておられるのですから、その教えは本当に甚だ深いものなのです。

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