供養諸仏(15)

(くようしょぶつ)

龍樹祖師(リュウジュ ソシ)の曰(イハ)く、
(マ)た次に、諸仏は法を恭敬(クギョウ)するが故に、法を供養し、法を以て師と為(ナ)す。何を以ての故に、三世(サンゼ)の諸仏、皆 諸法実相(ショホウ ジッソウ)を以て師と為せばなり。

龍樹祖師の言うことには、
また次に、諸仏は法を敬い尊ぶが故に、法を供養し、法を師としている。何故なら、三世(過去 現在 未来)の諸仏は皆、 諸法実相(あらゆるものは、そのまま真実の姿である。)を師としているからである。

問ふて曰く、「何を以てか自ら身中(シンチュウ)の法を供養せずして、而(シカ)も他法を供養するや。」
答へて曰く、「世間の法に随へばなり。如
(モ)し比丘(ビク)、法宝(ホウボウ)を供養せんと欲(ホッ)せば、自ら身中の法を供養せずして、而も余の持法(ジホウ)、知法(チホウ)、解法(ゲホウ)の者を供養すべし。仏も亦(マタ)(カク)の如し。身中に法有りと雖も、而も余仏(ヨブツ)の法を供養するなり。」

尋ねて言う、「何故、自己の身中の法を供養せずに、他者の法を供養するのか。」
答えて言う、「世間の作法に従うからである。もし比丘(出家)が、法の宝を供養しようと願うなら、自己の身中の法を供養せず、他の法を護持する人、法を知る人、法を理解する人を供養しなさい。仏もまた同様であり、自己の身中に法があっても、他の仏の法を供養するのである。」

問ふて曰く、「仏の如きは福徳を求めず、何を以ての故に供養するや。」
答へて曰く、「仏 無量阿僧祇劫中
(ムリョウ アソウギコウチュウ)より、諸の功徳を修(シュ)して、常に諸善を行じたまへり。但(タ)だ報を求めずして、功徳を敬ふが故に、而も供養を作(ナ)すなり。」

尋ねて言う、「福徳を円満しているのが仏ならば、福徳を求めることはないはずである。それでは、何故 仏は供養をなさるのか。」
答えて言う、「仏は無量の計り知れない長い時の中で、多くの功徳を修め、常に様々な善を行じてこられた。これは、ただただ報いを求めずに、功徳を敬って供養をされたのである。」

 仏在時(ブツ ザイジ)の如き、一(ヒトリ)の盲比丘(モウ ビク)有りき。眼(マナコ)見る所無く、而も手を以て衣を縫ふ。時に針袵脱(シンジンダッ)せり。便(スナハ)ち言(イ)はく、「誰か福徳を愛して、我が為に袵針(ジンシン)せん。」

 仏(釈尊)が世に在りし時に、一人の盲目の比丘がいた。ある時、眼が見えずして手で衣(袈裟)を縫っていると、 針の糸が抜けてしまった。そこでその比丘は言った。「誰か、福徳を愛して、私のために針に糸を通して下さいませんか。」

是の時に仏、其(ソ)の所に到て、比丘に語(ツ)げたまはく、「我は是れ福徳を愛する人なり、汝が為に袵(ジン)し来たらん。」

この時に、仏はそこへ行って比丘に話された。「私は福徳を愛する者である。お前のために糸を通してあげよう。」

是の比丘、仏の声と識(シ)りて、疾(ト)く起きて衣を著(ツ)け、仏足(ブッソク)を礼(ライ)し、仏に白(モウ)して言はく、「仏は功徳 已(スデ)に満ぜり、云何(イカン)が福徳を愛すと言ひたまふや。」

この比丘は、それが仏の声であることを知って、すぐに起きて衣を着け、仏の足を礼拝して仏に申し上げました。「仏は福徳の功徳を既に満たしておられます、どうして更に福徳を愛すとおっしゃられるのですか。」

仏 報(ツ)げて言(ノタマ)はく、「我れ功徳 已に満ずと雖(イヘド)も、我深く功徳の因、功徳の果報、功徳の力を知る。今我 一切衆生の中に於いて、最第一を得たるは、此の功徳に由(ヨ)れり、是の故に我 愛するなり。」

仏は比丘に答えた、「私は功徳を既に満たしているけれども、深く功徳の因、功徳の果報、功徳の力を知っている。今 私がすべての衆生の中で、最も優れたものを得ることが出来たのは、この功徳のお蔭である。だから私は福徳を愛するのである。」

仏 此の比丘の為に、功徳を讃(サン)し已(オワッ)て、次に為に随意に説法したまふ。是の比丘、法眼浄(ホウゲンジョウ)を得て、肉眼(ニクゲン)更に明らかなりき。

このように、仏はこの比丘のために功徳を讃えて、更に説法をされた。そこでこの比丘は、清らかな法の眼を得て、肉眼が再び明らかになったのである。

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