供養諸仏(16)

(くようしょぶつ)

この因縁、むかしは先師(センシ)の室にして夜話(ヤワ)をきく。のちには智度論(チドロン)の文(モン)にむかうてこれを撿校(ケンコウ)す。伝法祖師の示誨(ジケ)、あきらかにして遺落(イラク)せず。

この釈尊と盲目の比丘の因縁について、昔、先師 如浄和尚の部屋に於いて夜話を聞きました。後に龍樹の智度論の文を見て、これを調べ確かめました。大法伝受の祖師の示す教えについて、先師は明らかで遺漏するところがありませんでした。

この文、智度論第十にあり。諸仏かならず諸法実相(ショホウ ジッソウ)を大師としましますこと、あきらけし。釈尊(シャクソン)また諸仏の常法(ジョウホウ)を証しまします。

この文は、智度論第十にあります。ここに、諸仏は必ず諸法実相(あらゆるものは、そのまま真実の姿である)を大師(優れた師)とされていることが明らかに説かれています。釈尊はまた、諸仏の日常の作法を明らかにされているのです。

いはゆる諸法実相を大師とするといふは、仏法僧の三宝を供養恭敬(クヨウ クギョウ)したてまつるなり。諸仏は、無量阿僧祇劫(ムリョウ アソウギコウ)、そこばくの功徳善根(クドク ゼンコン)を積集(シャクジュウ)して、さらにその報をもとめず、ただ功徳を恭敬して供養しましますなり。

いわゆる「諸法実相を大師とする」というのは、仏 法 僧の三宝(三つの宝)を供養し敬い奉ることです。諸仏は、無量無数の長い年月に、多くの功徳 善根を積んで、まったくその報いを求めることがありませんでした。それはただ功徳を敬って供養されたからなのです。

仏果菩提(ブッカ ボダイ)のくらゐにいたりてなほ小功徳を愛し、盲比丘(モウビク)のために袵針(ジンシン)しまします。仏果の功徳をあきらめんとおもはば、いまの因縁まさしく消息なり。

釈尊は、仏の悟りの位に至っても、なお小さな功徳を愛して、盲目の比丘のために針に糸を通してあげました。仏の功徳を明らかにしようと思うなら、この釈尊と盲目の比丘の因縁が、まさにそれであることを学びなさい。

しかあればすなはち、仏果菩提の功徳、諸法実相の道理、いまのよにある凡夫のおもふがごとくにはあらざるなり。

このように、仏の悟りの功徳とは、また諸法実相の道理というのは、今の世間の凡夫が思うこととは異なるのです。

いまの凡夫のおもふところは、造悪の諸法実相ならんとおもふ、有所得(ウショトク)のみ仏果菩提ならんとおもふ。

今の凡夫の思うことは、人は悪をなすのが真実であろうと思い、修行して得られたものだけが仏の悟りであろうと思うのです。

かくのごとくの邪見は、たとひ八万劫(ハチマンゴウ)をしるといふとも、いまだ本劫本見、末劫末見をのがれず、いかでか唯仏与仏(ユイブツ ヨブツ)の究尽(グウジン)しましますところの諸法実相を究尽することあらん。

このような不正な考えでは、たとえ八万劫という無量の時を知ることが出来たとしても、未だ「過去は存在するが、未来は存在しない」という考えを逃れていないのであり、それでどうして、ただ仏と仏だけが究め尽くされた諸法実相を究め尽すことが出来ましょうか。

ゆゑいかんとなれば、唯仏与仏の究尽しましますところ、これ諸法実相なるがゆゑなり。

何故かと言えば、ただ仏と仏のみが究め尽くしてこられたものが、諸法実相であるからです。

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