三時業(12)

第三に順後次受業(ジュンゴジジュゴウ)とは謂(イワ)く、若し業(ゴウ)を此の生(ショウ)に造作(ゾウサ)し増長して、第三生に随ひ、或いは第四生に随ひ、或いは復 此れを過ぎて、百千劫なりと雖も、異熟果を受くる、是を順後次受業と名づく。

「三時業の第三、順後次受業とは、もし善悪の業(行い)を今生に積み重ねて、その果報を第三生(次の次の生)の中に、或いは第四生(更に次の生)の中に、或いは更に後の百千劫の中に受ければ、これを順後次受業と名づける。」

いはく、人ありて、この生に、あるいは善にもあれ、あるいは悪にもあれ、造作しをはれりといへども、あるいは第三生、あるいは第四生、乃至百千生のあいだにも、善悪の業を感ずるを、順後次受業となづく。

人が今生に於いて、善事であれ悪事であれ為し終わっても、或いは第三生に、或いは第四生に、又は百千生の間に於いて、善悪業を感受することを順後次受業というのです。

菩薩の三祇劫(サンギコウ)の功徳、おほく順後次受業なり。かくのごとくの道理しらざるがごときは、行者(ギョウジャ)おほく疑心をいだく。いまの闍夜多尊者(シャヤタ ソンジャ)の在家のときのごとし。もし鳩摩羅多尊者(クモラタ ソンジャ)にあはずば、その疑ひとけがたからん。

菩薩の三祇劫(三阿僧祇劫。阿僧祇劫は数え切れない極大の時間)に亘る修行の功徳は、その多くが順後次受業です。この道理を知らなければ、修行者の多くは因果の道理に疑心を抱くことでしょう。先ほどの闍夜多尊者の在家の時のようにです。彼がもし鳩摩羅多尊者に会わなければ、その疑問は解けなかったことでしょう。

行者もし思惟(シユイ)それ善なれば、悪すなはち滅す。それ悪 思惟すれば、善すみやかに滅するなり。

修行者がもし善を思えば悪はすぐに無くなり、悪を思えば善はすぐに無くなるのです。

室羅筏(シラバ)国に昔 二(フタリ)の人有り、一(ヒトリ)は恒に善を修し一は常に悪を作す。修善行(シュゼンギョウ)の者は一身の中に於いて恒に善行を修し未だ嘗て悪を作さず。作悪行(サアクギョウ)の者は一身の中に於いて常に悪行を作し未だ嘗て善を修せず。

室羅筏国に昔、二人の人間がいました。一人は常に善を修め、もう一人は常に悪を為していました。善行を修める者は、一生の中に於いて常に善行を修して、未だ悪を為したことがありませんでした。また悪行を為す者は、一生の中に於いて常に悪行を為して、未だ善を修めたことがありませんでした。

善行を修するもの、臨命終(リン ミョウジュウ)の時、順後次受の悪業力(アクゴウリキ)の故に、欻(タツマチ)に地獄の中有(チュウウ)ありて現前す。

善行を修めた者は、命が終わる時になって、順後次受の悪業力のために、たちまち地獄の中有が目の前に現れました。

便ち是の念を作さく。「我が一身の中に、恒に善行を修して、未だ嘗て悪を作さず。応に天趣に生ずべし。何の縁にて此の中有ありて現前するや。」

そこで自ら思うに、「私は一生の中に常に善行を修めて、未だ悪を為したことは無い。それなら天界に生まれるはずである。何の因縁でこの地獄の中有が現れるのだろう。」と。

遂に念を起こして言(イワ)く、「我定んで応に順後次受の悪業有りて、今熟すが故に、此の地獄の中有現前せるならん。」

そして思い至って言うに、「私にはきっと前世に順後次受の悪業があり、それが今熟して、この地獄の中有となって現れたのであろう。」と。

即ち自ら一身より已来(コノカタ)修する所の善業を憶念して深く歓喜を生ず。

そこで、自ら一生の中に修めた善業を思い起こして、深く喜びました。

勝善思 現在前するに由るが故に、地獄の中有は即便(スナワ)ち陰歿(オンモツ)して、天趣の中有 欻爾(タチマチ)に現前し、此れ従り命終して天上に生ぜり。

すると、優れた善の思いを起こしたことによって、地獄の中有はすぐに消え、天界の中有がたちまち現れて、その命が終わると天上界に生まれました。

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