三時業(15)

皓月供奉(コウゲツ グブ)、長沙景岑和尚(チョウサ ケイシンオショウ)に問ふ。
「古徳云く、了ずれば即ち業障本来空
(ゴッショウ ホンライクウ)なり、未だ了ぜずば応(マサ)に須らく宿債(シュクサイ)を償(ツグナ)ふべしと。只 師子尊者(シシ ソンジャ) 二祖大師の如きは、什麽(ナニ)としてか債を償い得去るや。」

皓月供奉(供奉は貴人に仕える役人)は長沙景岑和尚に尋ねました。
「古人の言葉に、悟れば悪業(悪しき行い)の障りは、本来実体が無いものである。まだ悟っていなければ、過去世の悪業の報いを受けなければならない、とあります。それなら、師子尊者や二祖大師(慧可)のような人たちは、なぜ災難を受けたのでしょうか。」

長沙云く、「大徳(ダイトク)は本来空を識らず。」
皓月云く、「如何なるか是
(コレ) 本来空。」
長沙云く、「業障 是なり。」
皓月又問ふ、「如何なるか是 業障。」
長沙云く、「本来空 是なり。」
皓月無語。

長沙は答えて、「あなたは、本来実体が無いことを知らない。」
皓月は尋ねました。「本来実体が無いとは、どういうことでしょうか。」
長沙はこたえて、「悪業の障りのことである。」
皓月は又尋ねました。「悪業の障りとは、どういうものでしょうか。」
長沙は答えました。「本来実体が無いということである。」と。
皓月は黙ってしまいました。

長沙 便(スナワ)ち一偈(イチゲ)を示して云く、
「假有
(ケウ)は元 有に非ず、假滅(ケメツ)も亦 無に非ず、涅槃(ネハン)と償債の義、一性(イッショウ)にして更に殊(コト)なること無し。」

長沙はそこで一つの教えを説きました。
「全てのものは元来 仮の姿であって、実体あるものではない。また全てのものは仮に滅っするのであって、無になるわけではない。涅槃(煩悩の滅)と悪業の報いを受けること(祖師の死)は、一つの性であって少しも違わない。」と。

長沙景岑は南泉(ナンセン)の願禅師(ガンゼンジ)の上足(ジョウソク)なり、久しく参学のほまれあり。ままに道得(ドウトク)是あれども、いまの因縁は、渾(スベ)て無理の会得(エトク)なり。

長沙景岑は南泉の願禅師(普願)の高弟であり、長年修行したことで高名な人です。ほぼ道理を尽くしていた人ですが、今の話は全く理に適っていません。

ちかくは永嘉(ヨウカ)の語を会(エ)せず、つぎに鳩摩羅多(クモラタ)の慈誨(ジカイ)をあきらめず。はるかに世尊の所談、ゆめにもいまだみざるがごとし。

近来の永嘉(玄覚)の語を会得していないばかりか、鳩摩羅多の懇切な教えをも明らかにしていません。まして世尊(釈尊)の説く教えなどは、夢にも見たことがないようです。

仏祖の道処(ドウショ)すべてつたはれずば、たれかなむぢを尊崇せん。

仏祖の教えをすべて伝えていないのなら、だれがあなたのことを尊崇するものでしょうか。

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