三時業(16)

業障(ゴッショウ)とは、三障のなかの一障なり。いはゆる三障とは、業障 報障 煩悩障なり。業障とは五無間業(ゴムゲンゴウ)をなづく。

業障とは、三障(仏道を妨げる三つの障り)の中の一つです。いわゆる三障とは、業障(過去の悪業による障り)、報障(地獄 餓鬼 畜生などの苦界に生まれることによる障り)、煩悩障(貪り 怒り 愚かさなどの煩悩による障り)のことです。業障とは、五無間業(無間地獄に堕ちる五つの悪業)のことを言います。

皓月(コウゲツ)が問、このこころなしといふとも、先来いひきたること、かくのごとし。

皓月の問いには、この考えは無かったかもしれませんが、先ほどから言って来たことは、五無間業の業障のことなのです。

皓月が問は、業不亡(ゴウ フモウ)の道理によりて、順後業(ジュンゴゴウ)のきたれるにむかふて、とふところなり。

皓月の問いは、業はなくならないという道理によって、過去世の悪業の報いが来ることに対して尋ねたのです。

長沙(チョウサ)のあやまりは、如何是本来空(ニョカゼホンライクウ)と問するとき、業障是(ゴッショウゼ)とこたふる、おほきなる僻見なり。

長沙の誤りは、皓月が「本来実体が無いとは、どういうことでしょうか。」と尋ねた時に、「悪業の障りのことである。」と答えたことで、これは大きな僻見と言うべきです。

業障なにとしてか本来空ならむ、つくらずば業障ならじ、つくられば本来空にあらず。

業障がどうして、本来実体が無いものと言えましょうか。悪業を作らなければ業障は無いでしょうが、作れば実体が無くはありません。

つくるは、これつくらぬなり、業障の当体をうごかさずながら、空なりといふは、すでにこれ外道(ゲドウ)の見(ケン)なり。

悪業をつくることは、つくらないのと同じであると言ったり、業障そのものを動かさずに、それには実体が無いと言うのは、すでに外道の考えです。

業障本来空なりとして、放逸に造業(ゾウゴウ)せん衆生、さらに解脱(ゲダツ)の期あるべからず。

業障は本来実体が無いと考えて、勝手気ままに悪業をつくる人々には、決して解脱の機会はありません。

解脱のひなくば、諸仏の出世あるべからず。諸仏の出世なくば、祖師西来(ソシ セイライ)すべからず。祖師西来せずば、南泉(ナンセン)あるべからず。南泉なくば、たれかなむぢが参学眼(サンガクゲン)を換却せむ。

解脱の時がなければ、諸仏が世に出現することもありません。諸仏が世に出現しなければ、祖師達磨も中国にやって来なかったことでしょう。祖師達磨が中国に来なければ南泉(普願)もいなかったのです。南泉がいなければ、誰が長沙の仏道を学ぶ眼を正してくれたでしょうか。

また如何是業障と問するとき、さらに本来空是(ホンライクウゼ)と答する、ふるくの縛馬答(バクメトウ)に相似(ソウジ)なりといふとも、おもはくは、なむぢ未了得の短才をもて、久学の供奉(グブ)に相対するがゆゑに、かくのごとくの狂言を発するなるべし。

また皓月が「悪業の障りとはどういうものでしょうか。」と尋ねた時に、さらに長沙が「本来実体が無いということである。」と答えたことは、昔の縛馬答(要領を得ない問答)に似てはいますが、思うに、長沙がまだ悟りを得ていない乏しい才で、久しく学んだ皓月供奉に相対したために、このような狂言を発したのでしょう。

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