三時業(17)

のち偈(ゲ)にいはく、「涅槃償債(ネハン ショウサイ)の義、一性(イッショウ)にして更に殊(コト)なること無し。」

長沙は後に教えを説いて、「涅槃(煩悩の滅)と悪業の報いを受けること(祖師の死)は、一つの性であって少しも違わない。」と言いました。

なんぢがいふ一性は、什麽(ナン)の性なるぞ。三性のなかに、いづれなりとかせん。おもふらくは、なんぢ性をしらず。

あなたの言う一つの性とは、いったい何の性を言うのでしょうか。三性(善の性、悪の性、善でも悪でもない性)の中のどれを言うのでしょうか。思うに、あなたは性を知らないのです。

涅槃償債の義とはいかに。なんぢがいふ涅槃は、いづれの涅槃なりとかせん。

「涅槃と悪業の報いを受けること」とはどういうことでしょうか。あなたの言う涅槃は、どの涅槃なのでしょうか。

声聞(ショウモン)の涅槃なりとやせん、支仏(シブツ)の涅槃なりとやせん。諸仏の涅槃なりとやせん。たとひいづれなりとも、償債の義にひとしかるべからず。

声聞(仏の説法を聞いて悟る者)の涅槃でしょうか、それとも支仏(自ら縁起の法を観じて悟る者)の涅槃でしょうか、それとも諸仏の涅槃のことを言っているのでしょうか。たとえ何れであっても、涅槃は悪業の報いを受けることと同じではありません。

なんぢが道処(ドウショ)、さらに仏祖の道処にあらず、更に草鞋を買ふて行脚(アンギャ)すべし。

あなたの説く所は、まったく仏祖の教えではありません。もう一度、草鞋を買って行脚修行してくることです。

師子尊者(シシ ソンジャ) 二祖大師等、悪人のために害せられん、なんぞうたがふにたらん。最後身にあらず、無中有(ムチュウウ)の身にあらず、なんぞ順後次受業(ジュンゴジジュゴウ)のうくべきかなからん。

師子尊者や二祖大師(慧可)などが、悪人のために害されたことを、どうして疑うことが出来ましょうか。祖師は、輪廻を脱して仏となる最後身の菩薩ではありませんし、極善を修めて死後すぐに善処に生まれるという中有の無い身でもありません。どうして順後次受業の報いを受けないものでしょうか。

すでに後報(ゴホウ)のうくべきが熟するあらば、いまのうたがふところにあらざらん。

これは、すでに順後次受業の報いを受けるべき時が熟したのであって、今疑うところではないのです。

あきらかにしりぬ、長沙(チョウサ)いまだ三時業(サンジゴウ)をあきらめずといふこと。

明らかに知ることは、長沙がまだ三時業(三時にわたる善悪業の報い)を明らかにしていないということです。

参学のともがら、この三時業をあきらめんこと、鳩摩羅多尊者(クモラタ ソンジャ)のごとくなるべし。すでにこれ祖宗の業(ゴウ)なり、廃怠(ハイタイ)すべからず。

仏道を学ぶ仲間は、この三時業を鳩摩羅多尊者のように明らかにしなさい。これは仏祖の宗門の務めであり怠ってはいけません。

このほか不定業(フジョウゴウ)等の八種の業あること、ひろく参学すべし。いまだこれをしらざれば、仏祖の正法つたはるべからず。

この他に果報の時期が定まらない不定業など、果報のある業と果報のない業と合わせて八種の業があることを広く学びなさい。これを知らなければ仏祖の正法は伝わらないのです。

この三時業の道理あきらめざらんともがら、みだりに人天の導師と称することなかれ。

ですから、この三時業の道理を明らかにしていない仲間は、みだりに人間界天上界の導師と称してはいけません。

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