四禅比丘(7)

(しぜんびく)

四禅比丘、みづからが僻見(ヘキケン)をまこととして、如来の欺誑(ゴオウ)しましますとおもふ、ながく仏道を違背(イハイ)したてまつるなり。愚癡(グチ)のはなはだしき、六師等にひとしかるべし。

この四禅比丘(無聞比丘)は、自分の僻見を真実と考えて、釈尊が欺いたと思ったということは、それまでの長い間、仏道に背いてきたということです。愚癡の甚だしいことは、当時の六師外道等にも等しいものです。

古徳(コトク)(イ)はく、「大師の在世(ザイセ)、尚(ナオ)僻計(ヘキケイ)生見(ショウケン)の人有り。況や滅度の後、師無く禅を得せざる者をや。」

古聖の言うことには、「大師の居られた当時でさえ、僻見や我見を抱く人がいた。まして大師滅後の、師も無く禅定も得ていない者であれば、なおさらのことである。」と。

いま大師とは、仏世尊なり。まことに世尊在世、出家受具(シュッケ ジュグ)せる、なほ無聞(ムモン)によりては僻計生見のあやまりのがれがたし。いはんや如来滅後、後五百歳、辺地下賤(ヘンチ ゲセン)の時処、あやまりなからんや。

この大師とは、仏世尊つまり釈尊のことです。実に釈尊の居られた当時に出家した者でさえ、教えを聞かなければ、僻見や我見の誤りにおちいったのです。まして釈尊滅後の、五百年後の辺地に住む下賤の者であれば、なおさら誤りは避けられないことでしょう。

四禅を発(ホッ)せるもの、なほかくのごとし、いはんや四禅を発するにおよばず、いたづらに貪名愛利(トンミョウ アイリ)にしづめらんもの、官途世路(カント セロ)をむさぼるともがら、不足言(フソクゴン)なるべし。

四禅を得た者でさえこの通りなのですから、まして四禅を得ることが出来ずに、徒に名利を貪り愛する者、官吏の道や処世の道を貪る出家は、言うまでもありません。

いま大宋国に寡聞愚鈍(カモン ドンチ)のともがらおほし。かれらがいはく、「仏法と孔子老子の法と、一致にして異轍(イテツ)にあらず。」

今の大宋国には、教えを聞かない愚かな出家が大勢いて、彼らは、「仏の教えと孔子老子の教えは同じであって異なるものではない。」と言っています。

  大宋嘉泰(ダイソウ カタイ)中に、僧 正受(ショウジュ)といふもの有り、普燈録(フトウロク)三十巻を撰進(センシン)するに云はく、
「臣、孤山智円
(コザン エンチ)の言(ゴン)を聞くに曰(イワ)く、「吾が道は鼎(カナエ)の如し。三教は足の如し。足一つも虧(カ)くれば鼎 覆(クツガエ)る。」
臣、嘗
(カツ)て其の人を慕い、其の説を稽(カンガ)ふ。乃(スナワ)ち知りぬ、
(ジュ)の教(キョウ)たる、其の要は誠意に在り。
(ドウ)の教たる、其の要は虚心に在り。
(シャク)の教たる、其の要は見性に在り。
誠意と虚心と見性と、名を異にして体同じ。厥
(ソ)の帰する攸(トコロ)を究むるに、適(ユク)として此(コ)の道と会(エ)せざるは無し、云々。」(ウンヌン)

  大宋の嘉泰年中に、僧の正受という者が普燈録三十巻を著し、天子に奉って申し上げるには、
「臣が、孤山智円の言葉を聞くところによると、彼は、「私の道は鼎に似ている。仏教、儒教、道教の三つは、その三本の足のようなものである。その一つでも欠ければ鼎はひっくりかえるのである。」と言われました。
臣は、以前にその人を慕ってその説を考察し、そして知りました。それは、儒教の教えの要旨は誠意にあり、道教の教えの要旨は虚心にあり、釈尊の教えの要旨は見性にあるということであり、又その誠意と虚心と見性とは、名称は異なっても本体は同じであり、その帰着する所を究めれば、行き着くところはこの道と合致するのである、云々。」と。

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