袈裟功徳(21)

この蓮華色(レンゲシキ)、阿羅漢(アラカン)得道の初因(ショイン)、さらに他の功(コウ)にあらず。ただこれ袈裟を戯笑(ケショウ)のためにその身に著(ヂャク)せし功徳(クドク)によりて、いま得道(トクドウ)せり。

この蓮華色比丘尼(優鉢羅華比丘尼)が、聖者の道を悟った そもそもの原因は、決して他の功徳によるものではありません。それはただ、袈裟を戯れに身に着けた功徳によって、このように道を悟ったのです。

二生(ニショウ)に迦葉仏(カショウブツ)の法にあふたてまつりて比丘尼(ビクニ)となり、三生(サンショウ)に釈迦牟尼仏(シャカムニブツ)にあふたてまつりて大阿羅漢となり、三明六通(サンミョウ ロクツウ)を具足(グソク)せり。

この功徳で、次の生には迦葉仏の教えに会って尼僧となり、更に、第三生には釈迦牟尼仏に出会い、大いなる聖者となって三明と六神通を具えることが出来たのです。

三明とは、天眼(テンゲン)宿命(シュクミョウ)漏尽(ロジン)なり。六通とは、神境通(シンキョウツウ)他心通(タシンツウ)天眼通(テンゲンツウ)天耳通(テンニツウ)宿命通(シュクミョウツウ)漏尽通(ロジンツウ)なり。

三明とは、天眼明(人の未来を知る智慧)、宿命明(人の過去世を知る智慧)、漏尽明(煩悩を尽す智慧)の三つを言い、六神通とは、神境通(何処にでも自由に行く能力)、他心通(人の心を知る能力)、天眼通(人の未来を知る能力)、天耳通(人には聞こえない音を聞く能力)、宿命通(人の過去世を知る能力)、漏尽通(煩悩を尽す能力)の六つを言います。

まことにそれ、ただ作悪人(サアクニン)とありしときは、むなしく死して地獄にいる。地獄よりいでて、また作悪人となる。

実にこの尼僧は、ひたすら悪をなす人であった時には、空しく死んでは地獄に入り、地獄から出ては、また悪をなす人でした。

戒の因縁あるときは、禁戒を破(ハ)して地獄におちたりといへども、つひに得道の因縁なり。

しかし、出家受戒の因縁があれば、禁戒を破って地獄に堕ちても、最後には道を悟るのです。

いま戯笑のため袈裟を著せる、なほこれ三生に得道す。いはんや無上菩提(ムジョウ ボダイ)のために、清浄(ショウジョウ)の信心をおこして袈裟を著せん、その功徳、成就(ジョウジュ)せざらめやは。

このように、戯れに袈裟を着けても、第三生には道を悟るのです。まして無上の悟りを得るために、清浄な信心を起こして袈裟を着けたならば、どうしてその功徳が成就しないことがありましょうか。

いかにいはんや一生のあひだ受持(ジュジ)したてまつり、頂戴(チョウダイ)したてまつらん功徳、まさに広大無量なるべし。

まして一生の間、袈裟を護持して大切にする功徳は、まさに広大で計り知れないことでしょう。

もし菩提心(ボダイシン)をおこさん人、いそぎ袈裟を受持頂戴すべし。この好世にあふて仏種(ブッシュ)をうゑざらん、かなしむべし。

もし仏道を志す人があれば、急いで袈裟を受けて大切にしなさい。この良き世に出会って、仏になる種を植えないことは悲しいことです。

南洲(ナンシュウ)の人身(ニンシン)をうけて、釈迦牟尼仏の法にあふたてまつり、仏法嫡嫡(ブッポウ テキテキ))の祖師にうまれあひ、単伝直指(タンデン ジキシ)の袈裟をうけたてまつりぬべきを、むなしくすごさん、かなしむべし。

人間の住む世界に生まれて、釈尊の教えに会い、仏法を代々相続してきた祖師に会うことが出来て、親しく伝えられた袈裟を受けることが出来るのに、空しく日々を過ごしてしまうのは悲しいことです。

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